FC2ブログ

雑記(2019-07-20)-ある人間と老犬の関係

susa

雑記(2019-07-20)-ある人間と老犬の関係

18才になった老犬がいる。
自力では、もうほとんど何も出来ない。白内障で目が見えない。鼻も聴かない。耳も遠い。足腰も弱って満足に歩けない。
だが、生物というものは、それしきのことでは「生きていたいという欲求は失われない」ので、
寒ければ、ピーピーと鳴いて、人を呼びつけて、世話をしろと訴える。
暑くても、ピーピーと鳴いて、人を呼びつけて、世話をしろと訴える。
のどが渇いたら、ピーピーと鳴いて、人を呼びつけて、世話をしろと訴える。
トイレに行きたいと、ピーピーと鳴いて、人を呼びつけて、世話をしろと訴える。
何かある毎に、ピーピーと鳴いて、人を呼びつけて、世話をしろと訴える。
好き嫌いが激しいので、腹が減っていても、気に喰わないものは食べない。
しかも、同じものを何回か食べると、突然、「飽きた」と見向きもしなくなる。
消化器系も衰えていて、頻繁に下痢をする。
そうなると、対処するのに、かなり手間取る。
痴呆がかなり進んでいるので、部屋の中で、立ち上がって数穂歩くと、自分がどこにいるのかが判らなくなる
そうすると、ピーピーと鳴いて、人を呼びつける。
「時間」は関係ない。昼の3時でも、夜中の3時でも、ピーピーは容赦なく始まる。

包み隠さずに正直にいうと、「殺意」が沸く。
そろそろ死んでくれないかな、という気持ちになる。

つまり、「安楽死」を導入しようと考えている人々の気持ちが、それなりに判る。

ただ。
やっぱり、それはいけないことなのだ、と思いとどまる。
なぜかというと、それが「飼い主の責任」だからだ。
鎖でつなぎ留めておいて。
子供の頃に自分の力で行きて行ける力を与えないでおいて。
「もういらなくなったから死んでください」
というのは、筋が通らない。

それでも、世間には動物を、「安楽死」させるという話であるれているし。
自分がこの先、限界になって、そうなってしまわないという保証はどこにもない。
でも。
それは、「限界に達してしまった」ときの話であって。
この国で、「安楽死を認めろ」と言っている人々とは、根本的に立場が異なる。

彼らは、「限界」になんて達していない。
そろばんを弾いたら自分の懐に「負荷がかかる」という理由で、「安楽死の必要性を訴えている」。
そこには、果たすべき勤めだとか、義務だとかは、微塵もない。

介護に疲れて、殺してしまったとか、心中してしまったという、人々の気持ちは判る。
優しさとかは、余裕がなければ、枯渇してしまうものだから。
余裕がなくなってしまった人は、やがて、誰かを支えるという行為に、耐え切れなくなる。
その結果、「死」という手段を選択する。

しかし、この国で「安楽死」を要求する人々は、そういう弱者には見えない。極限状態まで追い詰められているようには見えない。
 ただの、「負債になったかならないか」という観点から、他人の死を要求しているように視える。

今回の参議院選挙で一番驚かされたのは、「安楽会」なる、安楽死を求める集団が、複数名選挙に出馬していたことだった。

なんていうか。

本人が死にたいのであれば、もう誰もとめられないんだから、法律必要ないじゃん。
だって。
死んだ人間は、法律では捌けないんだから。
「楽な死に方」だって、過去にいろいろ話題に(社会問題に)なったじゃん。
(連単とか硫化水素とか)
なのに、なんで、それを「権利」として認めさせる必要があるの?

「あの世」のことまで、法律で決めなくていいよ。
少なくとも、今は、そんな下らないお遊びをしている場合じゃないよ。

腐った政治の犠牲となんった人々が「死にたい」って思ったとき、救いになるのが「安楽死」とか。
どんだけ、人間として終わってんだよ。

まぁ、それはそれとして。
一日中、ピーピーと泣き叫ばれると、殺意が沸く。
そういう部分は、理解する。

人間、優しくなるためには、余裕がいる。

政治家は、この国を、「優しさで溢れた住み良い国」にするというのであれば、全ての国民に「余裕」を与えろ。
「際限のない欲望を満たせ」とは言わないが、人間らしい気持ちで要られる程度のゆとりは、寄越せ。

って思う。

スポンサーリンク

Posted bysusa

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply