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神憑りのお話ーー27

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神憑りのお話ーー27

千と千尋の神かくし・顔ナシと千尋     

千と千尋の神かくし より 千尋と顔無し すいません。私、この映画(ビデオ)は観てません。だから、あれこれ語る資格が哭いのかも識れません。(フィルムコミックで読んだので、話の筋は知ってます)。ですが、「異世界モノ」の代表のような存在なので、避けるわけにもゆかなくて。とりあえず、お借りしています。というか、次回はメインが宮崎アニメネタになるので、今回はその予告編みたいな感じです。


 この記事は この記事は《神憑りのお話ーー26》の続きです。


 記憶では、コレとほぼ同じ時期に、私に新たな変化が起こっていました。

 耳鳴りが始まったのもそうですが、長年抱えていた「腹部の鈍い痛み」が無くなって、それに置き換わるような形で、お腹から「クー(九)」という音が出るようになったのです。

《お腹が鳴る》ということ《だけ》を取り上げて考えるなら、むしろそれは、《陸上哺乳動物として当たり前の状態》なのですが、私の「クー」は、明らかに私の思考に呼応して鳴っていましたし、音の質も状況に応じて変化しました。私の事をせせら笑うような鳴り方もあれば、落ち込んでしょぼくれてしまったような音も、逆に慰めるような感じのものもありました。
 以前何度かお話しした、《トンビ》に似てます。
 ただ、アレはあくまでも《外》でしたし、トンビが何処かへ行ってしまえばそれで終わりでした。
 ですが今度は、自分の《内》に発生したわけです。
 有り体にいうと、私の肉体の中に、私とは異なる「別人格」が宿ったような感じです。
 多くの人が、「(悪)霊」、「神」、「脳が作った別人格」と呼ぶものと、コレが同じものなのかどうかは、私には判りませんが。
 とにかく、そういう現象が始まりました。
 あるいは、この現象はうっすらとは今までも存在していて、それが故あってクーと鳴るお腹の音に収斂され、確固たる個を確立してしまった、というような事かもしれませんが。
 この「クー」が問題の根源なのか、実は無関係なのかは、今の私には判りません。
 また、判る時が来るかどうかも、不明です。

 この現象に関しては、私はある時期まで、“コノハナサクヤヒメ”とか“《神》”とカッコ付けで表現していましたが、やがて“《B》”と呼ぶようになり、さらに“スサ”と呼ぶようになり、しかしそれらはいずれも長続きはせず、最終的には「呼び名なんてどうでもいいや」とかなりぞんざいに扱うようになりました。

 これとは別にもう一つ。
 旅の前からあった「世界が私の状況に応じて動いている」ような感覚が、一層強くなりました。もはや、《確信を持つに至った》と言って良いでしょう。


《この世界は、異常だ》という確信です。


千と千尋の神かくし

千と千尋の神隠し より 千尋とハク 訳の解らない世界に迷い込み、両親は豚になってしまい、途方に暮れる千尋と、それを慰めるハク。この作品は、興行収益が日本歴代1位という事なので、実質的には宮崎隼雄アニメの代表作ということになるんでしょう。(思い入れの深い作品は、人によってそれぞれでしょうが)。そうそう。この作品では「名前」がとても重要なキーワードになりますね。(私は観てないんですがね)


 そして、異常を自覚すると、完全に「ゲームや漫画の主人公になったような感覚」になります。
 ですがそれは、「なんでも思い通りに出来る」という意味ではありません。むしろ真逆です。
 理不尽に振り回されるが故の感覚です。

 この理不尽は、「非日常」という言葉に置き換えた方が理解しやすいかもしれません。
「理不尽な非日常」です。
 なお、理不尽は、数字に置き換えると「二二十」。富士(の)神。

 あぁ。
 富士なぁ……

 確かに、理不尽な存在だわなぁ……

 あぁ、そうかぁ。
 俺は富士と関わりを持っちゃったから、こんなに理不尽な目にばかり逢わされるのかぁ……
 納得……かなぁ?

 理屈としてはめちゃくちゃですが、数字言葉を繋げて行くと、何故か妙な説得力があります。
 そして、この日本という国は、「言霊の国」なんだそうです。

 ですから、この世界では、コレこそがあるべき姿なのかもしれません。
(私的には、こんなのが「正しい」なんて嫌ですが。私が嫌でも、そういうものなら、それは仕方がないのです)


ハクの正体-s

千と千尋の神隠し より ハク(真の姿) 真の名前を奪われて、自身の主導権を失ってしまっていたハク。彼は、千尋によって自らの本当の名前=ニギハヤミコハクヌシを思い出し、それによって自由を取り戻す。(この作品のテーマは、「自分探し」であるらしいです)。なお、繰り替えにしなりますが、私はこの作品を映像で観たことは一度もなくて、フィルムコミックで読んだことがあるだけです。だから、この作品については皆さんのほうが詳しいはずで、あんまり偉そうなことは書けません。本当にごめんなさい。


 さて。
 私たちが接しているゲームや漫画の主人公は、ほぼ日常的に「明らかな理不尽」「明らかな非日常」に晒されています。

 そうじゃないと、「ドラマ」を描きにくいからです。
 昨日と同じ今日、今日と同じ明日。
 それは、私たちの立場からすれば「安心出来る日々」ですが、観察するが判らしたら、「何も面白みがない」のです。
 だから、娯楽を求める立場からすると、「とびきりの非日常」が「他人」に訪れることを希望します。

 呪われてしまった(特殊な病気に感染した)、とか。
 謎の生命体(霊的な存在を含む)が大挙して押し寄せてきた、とか。
 特殊な能力(実在する組織を含む)を持った連中に命を狙われるハメになった、とか。

 あるいは、「異世界に迷い込んだ」とか。


 私たちが「楽しい」と感じるゲームや漫画、小説などは、大体、こういうカテゴリーに分類されているのではないでしょうか?

 その他に、「能なしが、頑張って大出世をする」「高嶺の花だった相手との恋が成就する」みたいな物語も好まれます。

 これらは全て、「非日常」です。

 ところが。
 自分が主人公の立場に立たされると、「呪われる」とか「謎の生命体」だとか「特殊な能力」なんて話しは、「ちょっと待ってよ。こんなもの、俺に、どうしろっていうのよ?」となっしてまいます。

 正直、そんな話、押し付けられたくないです。

 普通でいいです。普通が一番。普通万歳!!


 でも、もしも、現実にそういう事が起こりうるなら、そして、その光景を他人が覗き見ることが出来るのだとしたら、腹を抱えて笑い転げるような、あるいは、ドキドキハラハラしながら食い入るように見つめてしまうような、そういう作品が出来上がるのだと思います。

 そして、私は、「そういう対象」にさせられてしまったような、感覚を覚えるようになったのです。

「誰かの玩具にされている」ような感覚です。

「私を鍛えている」という風に解釈していた時期もありますが、鍛えるならば、自信を失って心がへし折れるまで、徹底的に打ちのめしたりはしないでしょう。

 それは、「躾け」と称してひたすら体罰を加える「ろくでなし」が良くやることです。
 真の成長を促したいのであれば、植物を育てるように、十分な水と栄養と光を与えてやらなければなりません。
 しかし、この《現象》を通じて私が感じたことは、水も栄養も光も貰えず、葉っぱを毟られたり、枝を切られたり、変な風にねじ曲げられたりといった――まるで、盆栽にでもされているような感じです。


 ハッキリ言って、やられている側は、「全く楽しくない」です。


オマケ?

豚になった千尋の両親

千と千尋の神隠し より 豚になった千尋の両親 えーと。「二二」の読み方の一つに、「豚」ってのがあります。トランプのブラックジャックでも、22は「ブタ」でしょ。だから、「二」には「タ」という読み方があります。これ、日月神示の謎解きのためには、結構重要なんですよ。


 つづく

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Posted bysusa

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