『快』『不快』を考える

susa

『快』『不快』を考える

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独立行政法人産業技術総合研究所が開発した人間型ロボット HRP-4C
身長158cm。体重43Kg。公開された時期は2009年と、この分野の技術発展の進歩の速さから考えると、「一昔し前」のモデル。ロボットは、人間そっくりにになるに連れて、「親近感」がましてゆくが、ある地点に到達すると、人間は、急激に不快感を感じるようになっている。これを「不快の谷」という。深いの他荷の克服は、ロボットを人間社会に進出させるために不可欠なことと考えられており、「より人間らしいロボット」の開発が様々なところで続けられている。このHRP-4Cは、登場から既にかなりの時間が経過しており、人間風に表現すると、彼女は、それなりのお姉さん、ということになる。CPUにPentumMの1.6Ghzが使われている、と言ったほうが、時間の経過を実感できるだろうか? 登場時、「かわいい」とかなり話題になったロボットではあるが、「不快の谷」を完全に排除するには至っていない。2009年でこの水準なのだから、10年近くたった現在は、人間と見分けがつかないようなレベルにまで進化したのだろう……と期待は膨らむが、2011年の東北大震災を受け、「まずロボットに求めるべきは実用性」という見解に方向を転換。現在、産業技術総合研究所のロボット開発は、「人間そっくりなロボット」の開発を中断している。

 人間は基本的に、物事を「快」と「不快」で別けて認識するように出来ています。そして、この快、不快にいくつかのキーワードが結び付けられて、「記憶」が刻み込まれます。その「快、不快情報」を最初に蓄えておく所が海馬です。そのため、海馬を損傷してしまうと、記憶能力そのものが喪失して、新しい情報を記憶できなくなります。

 敵と味方。美味しいと不味い。心地良いと不愉快。
 そういうった「感覚」にしたがって生きていると、「ある程度」までは上手く生きてゆくことが出来ます。
 というよりも、この先術で上手くゆくのは、あるレベルまで。
 さらに、この認識方法は、一度「ダメなものを心地よい」と思い込んだ瞬間から、悪魔の罠に豹変するという特徴
があります。
 例えば、ギャンブル。
 最初のビギナーズラックによって、
『ギャンブルは儲かる!!』『ギャンブルは楽しい!!』『ギャンブル最高!!』と思い込んでしまうと、その後、ひたすら損をし続けているのに、それでも「儲かる」「楽しい」「最高」という認識が持続し続け、ギャンブルに貴重なお金、時間、精神力が奪われてゆくことになります。
 更に悲惨なのが、麻薬の類。
 一度使用すると、克服するのにものすごい犠牲を払うことになります。
 麻薬類に関しては、たった一度の使用によって、一生を棒に振るケースが珍しくありません。

 では、悪魔の罠から抜け出すためには、いったい、どうすればよいのでしょうか?
 答えは、「学習」です。
 学習で覚えた事なので、学習で上書きするしか無いのです。
(いずれは、脳に直接刺激を与えて、修正できるようになるんでしょうけど)

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プラモデル 左は製品に手を加えず、ほぼそのまま組み立てたもの。右は部品に手を加えたもの。ある程度、この商品に関する知識があると、右側の方が「出来が良い」ことが判る。しかし、そういう知識がない人には、「どちらも同じ」に見える。つまり、「不快の谷」は個々の学習の結果、生じることになる。それにしても、カメラの性能が悪いのか、腕が悪いのか、写真の写りがひどすぎる。


 ギャンブルや麻薬に対する「学習」は強烈で、上書きには相当の困難が生じますが、不可能ではないし、矯正施設などの手助けもあります。

 ですが、世の中には、もっと規模の大きな「罠」があります。
「物語」です。
風の谷のナウシカs
風の谷のナウシカ より ナウシカと子供のオーム 「不快」とか「谷」とかいう単語が出てきたけれど、彼女達は全く関係がない。関係は無いけれど、ナウシカは物語の終盤で、個人の「快」「不快」を基準に、かつて人類が未来を託した「次の時代を生きる新しい人類」を滅ぼしてしまう。ちなみに、彼女も……
。まあ、その内に彼女の事を話題にするかもしれません。

 たとえば、坂本龍馬は幕末の英雄ですが、彼の人生をつぶさに検証してみると、「船を沈めて、(ありもしなかった銃を積んでいたと強弁し)賠償金をせしめとる」とか、「イギリス人の貿易商と通じて武器を輸入し、日本国内に内乱を勃発させる」など、冷静に考えると、「この人、ただの極悪人じゃないのか?」と思えてきます。
 しかし、私達は物心付いた時から「坂本龍馬は英雄」と刷り込まれてしまっていますし、彼の生涯を胸踊るように描いた文学作品やドラマが数多く存在します。
 それらによって、「共感」を覚えてしまうと、大抵の人が、坂本龍馬のことを好きになります。
 そして、好きになってしまうと……、彼に対する評価が、良い方向に傾きます。

 そのため、沈没したいろは丸の代金を大幅に水増しした上に、ありもしなかった銃の代金まで上乗せして和歌山藩に請求し、まんまとそれをせしめたことさえ、拍手喝采してしまいます。

 でも。
 それで、良いのでしょうか?

 こういうのは、「ただの依怙贔屓」と言うんじゃありませんか?

 好きだから応援する。
 単なる一個人が芸能関係者に対して、それを行うことは、全く問題ないでしょう。
 しかし、裁判官が知人に対して、裁判の場でそういうことをすると、大問題になります。
 学校教師が、生徒に対して依怙贔屓をしても、同じように大問題になります。

 では、政治家に対して、依怙贔屓をすることは、どうでしょう?

 おそらく、政治家に対して、有権者は、裁判官が法定で被告や原告に接するのと同じように、あるいは、教師が生徒に対して接するのと同じように、個人の好みを排除して、公正に判断をくださなければ、ならないのではないでしょうか?
 もしかしたら、それは、「民主主義政治が歪んでしまわないための、基礎の基礎」の・ようなものではないのでしょうか?

 私達は、「民主主義政治の最低限の知識」すら、誰からも教えてもらえず、ただ適当に、「政治」を弄んできただけだったのではないか?

 ふと、そんなふうなことを思いました。

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Posted bysusa

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