そして、《変態》という人種が生まれた――⑲

susa

 そして、《変態》という人種が生まれた――⑲

バガボンド‥武蔵と又八    
バガボンドより 宮本武蔵(左)と本位田又八(右) 戦国の乱世の末に、剣による立身出世を目指して戦いの世界に飛び込んでいった二人の若者。武蔵と又八。幼い頃から共に遊び、これからも同じ道を共に歩むつもりだった二人は、しかし、これ以後、全く異なる人生を歩み始める事となる。「天下無双」の夢を追い続けた武蔵と、「酒と女」の味を知って、居心地の良い世界に染まりきってしまった又八。しかし、それだけで終わるほど、この時代の激動は甘くはなかった。宮本武蔵という人物に関しては、実在した生身の武蔵の実像と、後に神格化された武蔵像とで、相当な開きがある。また、後世の人間によって描かれた武蔵も、作者の世界観が色濃く反映されていて、やはり相当な開きがある。そのような中で、井上雄彦氏が描くバガボンドの中の世界観は、内面世界を重視しており、それぞれのキャラクターも相当な掘り下げがなされている(吉川英二氏の小説は、かなりドロドロしていた。特に、佐々木小次郎は、ただの嫌なやつで嫌悪感を感じた記憶がある)、井上氏の世界はあえて美化(純粋化)されているが故に人の生き方を考える上で明階で、極めて良質の手引となっている。ただひたすら強さを追い求め、人を切り続ける武蔵は現代人から見たら相当な《変体》(殺人狂?)ではあるが、当時の日本人としては、『貧しい者が成り上がるためには剣の道しかない』、『名も無き農民から天下人となった太閤秀吉という前例がある』ので、こういう人間は珍しくはなかった(と言われている)。ただ、それを勘案しても武蔵の生き方はやり過ぎであり、十分すぎるほどの《ド変体》である。そして、当時の人々の目から見ても十分に異常出会ったが故に、彼の名は歴史に留められることとなった。なお、宮本武蔵というと二刀流の変体剣術が有名だが、これは後世の人間からはあまり評価されていない(試合で勝てないから)。

 この記事はそして、《変態》という人種が生まれた――⑱の続きです。

(漫画家‥井上雄彦氏の描く)宮本武蔵は、ヴィンランド‥サガのトルフィンと共通する要素が多く、しかも内面をヴィンランド・サガ以上に深く掘り下げて描かれています。

 ただひたすら、天下無双を目指していた若き日の武蔵。
 ただ無邪気に、戦場で戦いたかった幼少期のトルフィン。

 トルフィンが、ある時から「殺すことの虚しさ」を感じるようになったのと同様、武蔵もまた、剣の道において「天下無双」を追い求めることの空虚に気が付きます。

バガボンド「降りた。殺し合いの螺旋は」s
バガボンドより 吉岡一門を一人で壊滅させるという快挙を成し遂げた後に、武蔵の変体、もとい、変質、もとい、成長が始まる。ひとつの高みに到達して、武蔵は世界を違う視点から見つめられるようになった。それでも武蔵が戦いを続けるのは、「巌流島で佐々木小次郎を倒すという史実があるから」という身も蓋もない事情はさておき、武蔵がまだバガボンド(彷徨える者)であるからだろう。

 銀河英雄伝説のヤン‥ウェンリーは、幼い頃から歴史の学習を通じて「人間の本質」「社会の現実」というものを早い内に理解してしまっていたのでしょう。人間が、どういう欲求を持ち、それに振り回された結果に、どんな末路が待っているのか。発生した社会がどのように移ろい、崩壊してゆくかは、学習すれば幼くとも勉学を通じて学ぶことが出来ます。つまり、早熟の大人だったのです。
 ヴィンランド・サガのトルフィンは、ヤン・ウェンリーとは全く逆の晩期大成型で、何も考えずに戦いの日々を送っていたはずなのが、運命の不思議な歯車によって、ある時、唐突に大人の階段を登る戸口を登らされ、しかも「これまでの償いをしなければ」という課題まで背負ってしまいました。この変質は、「復讐の相手が、あっけなく死んでしまい、自分が戦う意味を見失う」という段階を経て訪れました。
 宮本武蔵は、天下無双を追い続け、一定の成果を収め、そこからさらなる高みを求めて、自分よりもさらに先を歩んでいる二人の老人の境地にたどり着こうと、それまでとは異質の模索を始めたことで、その階段を登り始めました。
 それは、「大人」へと続く階段、です。
 三人は、何れも「子供」を卒業した人間なのです(自分自身に対して納得が出来る日は、まだまだ先のことでしょうが、彼らの「幼年期」が終わったことだけは間違いがないのです)。
バガボンド「ただの言葉だ」
バガボンドより 天下無双と称される人物の一人、「伊東一刀斎」と対峙した武蔵がたどり着いたひとつの解答。それは、天下無双を目指していた自身への否定ではなく、新たな境地に歩みをすすめるための「過去の自分からの卒業」であった。強くなれば夢が叶う。強くなれば問題が解決する。というような、幼稚な思考を、武蔵は卒業した。ヴィンランド‥サガのトルフィンも、「殺し合いの連鎖は、何も生み出さず、ただ悲劇のみを増やす」ということを、経験から理解していた。そして、友人や理解者、あるいは「良識ある人間」と接している内に、唐突に、幼年期を卒業した。銀河英雄伝説のヤン‥ウェンリーは、おそらく、とても早熟で、小さな頃から歴史などの学習を通じ、世の中とはそういうものだと理解してしまっていた。

 これに対して、機動戦士ガンダムの世界のシャア‥アズナブルという人物は、大人になれなかった人物です。
 自分はジオン・ズム・ダイクンの息子である。
ニュータイプである。
 といった事を根拠に、シャア‥アズナブルは、
 故に、父を殺したザビ家に対して、復讐を行わなければならない。
 故に、腐った地球連邦政府を正さねばならない。
 故に、地球を汚し続ける人類を裁かねばならない。

 といった、自己の理想、自己の都合を一方的に相手に要求し、それが果たされないと勝手に絶望して、ヤケを起こします。そして、幼稚な子供のまま、生涯を終えました。

 オーム真理教の麻原彰晃も同じです。
 自分は真理に到達した、この世で最も偉大な存在である。
 といった事を根拠に、麻原彰晃は、
 故に、自分は日本(世界)の統治者になるべきである。
 というような、自分の願望を一方的に相手に対して要求した。
 その手段が、「サリンの散布」でした。
 つまり、麻原彰晃も、ただの幼稚な子供だったのです。そして、逮捕され、長期に渡る独房生活は、そんな幼児な彼の精神を、木っ端微塵に打ち砕いてしまいました。

「大人」の心境は、子供には理解できません。

 人間の脳は、最初は動物と同じように、恐怖に直面した時、戦うか逃げるかの二者択一で状況を解決しようと努めます。
 そのため、世の中を「敵」と「味方」、あるいは「悪」と「正義」、といった形で解釈で識別してゆきます。このような時、生じる欲求が「数の論理」「力の論理」です。

 もっと強くなれば勝てる。
 もっと沢山集めれば勝てる。
 有利な状況を作って、相手を打ちのめせ!!


 という理屈です。
 これは、大脳の中で最も原始的な部分、扁桃体の活動です。
 そのため、何時の時代も子どもは、戦いが好きだし、強い者に憧れます。
 また、勝ったものが正義にも見えます。

 現在の「ウヨク(保守を自称する人々)」の攻撃性は、ここに起因しています。

 また、危機的局面に対峙した時、扁桃体が「勝てない」という解答を示す場合もあります。
 その際に起こる現象が「逃避」です。

 とにかく逃げよう謝ろう。
 許してもらう為ならば何でもしよう。

 という理屈です。
 これが、「サヨク」と呼ばれる人々の「負け犬根性」はここに起因しています。

 ウヨクとサヨク。
 両者は全く異質な存在ではなく、ただ単に、「攻撃」で処理するか、「逃避」で処理するかという反応が違うだけで、扁桃体に支配されて行動しているという点では、全く同じ存在なのです。

 ですが、人間の脳には膨大な「前頭前野」という領域があり、ここが十分に活動していれば、「戦う」「逃げる」以外の、もっと建設的な、あるいは柔軟な解答を提示できるようになります。(正確には、前頭前野の反応を観察・学習した眼下前頭皮質が修正を行っています)

 すると、怒りや恐怖が湧きにくくなります。
(あるいは、不幸な人に接すると、些細なことでも無性に泣けてきたりするようになります)

 相手にも家族があり、相手にも都合がある。
 あるいは、自分にも家族があり、自分にも都合がある。

 そういう事を総合的に考えられるようになると、人間は、それに見合った新しい視点で物事を考えられるようになります。

 シャア‥アズナブルや麻原彰晃は、そういう所まで到達できなかった人達です。
 逆に、ヤン‥ウェンリーは作品に登場した時点で既に、そういう領域にいた人です。
(銀河英雄伝説はヤン‥ウェンリーの成長物語ではありません。彼の内面に生じた変化はほんの微々たるもので、彼は最初から常に、戦いは可能な限り回避しようと努めています)
 トルフィンや武蔵は、作品の中で前者から後者へと変容を遂げるタイプです。それは、バガボンドやヴィンランド‥サガが、「主人公たちの成長」を描く作品だからです。

 変わるのは、「強い人間」ばかりではありません。
 嘘にまみれて生きていた「弱者」の代表のような本位田又八も、英雄たちとは異なる形で「子供時代」を卒業します。
バガボンド・本位田又八s

バガボンドより 死期の近づいた育ての母、お杉との共に過ごした僅かな時間の中で、又八は自らの反省が如何に嘘にまみれた無価値なものであったかを通関する。そして、「虚生」からの脱却を果たす。バガボンドの世界では、その後の又八は武蔵の半生の語り部として生きたように描かれている。ちなにみ、吉川英二作の小説では、お杉婆さんはこんな綺麗な死に方はせず、延々と武蔵に粘着しつづける。こういう所に、井上氏の願い=読み手へのメッセージが込められているのだろう。

 これらは、現在の私達の生き方、あるいは、社会の在り方を考える上で、とても重要な要素でもあります。
 子供が、「強さ」に憧れるのは、生物として至極まっとうな欲求です。
(そして、「弱い子供」が捻くれて、違う方面での強さを獲得し、これに対抗しようとするのも、同じくありふれた現象です)
 生物界では、弱いものは生き残れないのですから、生きてゆくためには、まずは「強くならねばなりません」そして、効率よく強くなるためには、「強くなることに快楽を感じる方が効率的」です。だから、特に男の子は、喧嘩や戦争にハマります。

 子供時代は、
「シャアはカッコいい」「いや、アムロのほうが強い」
 といった反応だけでも、一向に構わないのです。

 しかし、シャアやアムロと同じ年齢に達し、あるいは彼らの年齢を追い越した頃には、別の視点で彼らに接することが出来なければ、幼い頃に彼らに憧れていた者として、失礼なのではないかと考えます。
 単なる強い弱い、あるいは好き、嫌いではなく、シャア・アズナブルという人間、アムロ・レイという人間の全てを理解することに務める。彼らが何に苦しんで、何を欲していたかを理解する。彼らの生涯を、自分の血肉にして、彼らの生涯の分も背負って生きてゆく。
 そうすることは、自分が憧れた者に対する当然の行動ではないかと思います。

ヴァガボンド・柳生石舟斎(柳生宗厳)
バガボンドより 柳生石舟斎(柳生宗厳 新陰流の継承者にして柳生流の開祖。この石舟斎と宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄という二人の老人は、武蔵の生き方に強い家強を与え、井上氏の描く武蔵の前に、しばしば霊体として現れて関わりを持ち続けた。宮本武蔵という人間の外部人格、あるいは宮本武蔵という人格の一部みなして構わないのだろう。画像は、石舟斎が臨終する際、武蔵の前に別れを告げに現れた時のもの。

 同じことは、現実の世界の出来事に対しても言えます。
 子供の頃は、「大和カッコいい!!」「零戦最強!!」でも構いません。
 しかし、ある程度の年齢になったら、実際に大和や零戦に載って戦った、一人ひとりの生涯に付いても、きちんと思いを馳せるべきです。

 そして、馳せた思いを、自らの生き方に反映させるべきです。

靖国神社
靖国神社 国のために戦って死んでいった兵士たちの御霊が祀られている場所。現在、靖国神社に祀られている英霊たちは、私達が戦争で命を落とし、共に靖国に祀られることを望んでいるだろうか? それとも、この先、未来永劫、ただの一人も「英霊」が増えないことを希望しているか。そのへんのところを、よく考えるべきである。そして、「英霊たちは、これ以上靖国に祀られる者が増えることを望んでいない」という結論に達したのであれば、それを踏まえて、もう一度、先の「自衛隊の海外での武力行使容認」について、考えて頂きたい。

つづく

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Posted bysusa

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ポール・ブリッツ  

第13艦隊の中で、大人はユリアン・ミンツただひとりしかいませんよ。彼だけが早熟の大人で、後はガキです。
銀河英雄伝説という小説は、ガキがガキとしての自由な発想とガキらしい行動規範で、頭の固い大人である門閥貴族や自由惑星同盟の将軍たちを片端からやっつけていくことのカタルシスを楽しむ小説なのです。
ガキであるラインハルトを、ガキに理解のある大人集団が補佐することで勝ち続けるローエングラム陣営と、
ガキに理解がない大人たちのせいでガキどもである第十三艦隊が自由に行動できずに苦戦の連続になる自由惑星同盟で、
ラグナロック作戦もイゼルローン回廊の最終決戦も、ガキ同士の戦いで負けそうになったところで、ガキに理解のある大人ががんばってなんとかした、という展開じゃないですか。ミッターマイヤーとユリアン・ミンツのことです。
ロイエンタールの反乱とミッターマイヤーによる鎮圧ががそれほど盛り上がらなかったのは、これは大人と大人の戦いだからであって、ガキが自由な発想で勝利したり、大人がガキを諭すような勝ち方で勝つわけではないからでしょうね。

少なくとも、わたしは銀河英雄伝説をそのように読んでいます。

作中で最もガキでオタクで無責任なヤン・ウェンリーが、ガキでオタクらしく堂々とした理想論を語るところにわたしのようなオタクは快哉を送るわけです。あんなことはしがらみにがんじがらめな大人の軍人が言えることではないですよ。それをヤン・ウェンリーがいったりやったりできるのは、彼が基本的に無責任なガキだからです。もし、ヤンがガキの発想と行動規範を持っていなかったら、あれほど魅力的な、思わず味方したくなる人物にはなっていなかったでしょうね。「責任」を負わされて苦悩しひとりになりたがるユリアンのほうが、よほど大人として自分の肩に負わされた人間の命を考えています。

2018/03/24 (Sat) 22:15 | EDIT | REPLY |   
susa  
Re: タイトルなし

ポール・ブリッツさん、こんにちわ。

私とポール・ブリッツさんの使っている「大人」「ガキ」は、言葉の定義が異なっているように思います。

私は、「自分のことしか考えない人間をガキ」、自分以外の人間のこともちゃんと考えられる人間を「大人」という風に使っています。
この定義を、ポール・ブリッツさんの文章に当てはめると、意味が通じなくなります。
だから、「言葉の定義が異なっている」と思います。

ヤンは、自分と縁もゆかりもないユリアンを引き取って(嫌な顔ひとつせずに)保護者を引き受けたり。
(自軍だけでなく相手側も)死者が少しでも出ないような形で戦闘を収めようとする。

だから、「大人」と評価しています。

これでは、納得できませんか?

2018/03/26 (Mon) 00:18 | EDIT | REPLY |   

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